義経を追いかけた重忠公の三陸海岸へ行く3日目

千畳敷とは今から200年ほど前に急に海から平らな地形が上がって来たと言う

太宰治の小説「津軽」にこの海岸の話が出て来るらしく、千畳敷海岸誕生200年記念として民宿敷地の駐車場にこの石碑が有った。

民宿の場所は五能線五所川原能代を結ぶ)千畳敷駅の真ん前で毎日2往復走る「しらかみ号」がこの駅では10分ほど停車し列車から観光客が降りてきて千畳敷海岸を散策し5分前には電車の汽笛が鳴り観光客は再び列車で五所川原方面か能代方面へ向かう

丁度お風呂から上がって5:23ビールを飲んでいた時に下りの五所川原方面へ行くリゾートしらかみ5号が停車、沢山の観光客が降りてきて小雨の中海岸へ降りて行った、民宿へビールを買いに来る人も居た。

リゾートしらかみは季節により走らない時期が有るので要注意です

駅には駅員は居なく来る列車もワンマンカーで自由に出入り出来る、左側が宿泊した「民宿 望洋館」

朝の千畳敷海岸です左の薄っすらと明るい方面に見える山が、津軽海峡冬景色の竜飛岬方面

 

 

この日の予定は深浦町岩崎(旧岩崎村)へ行く千畳敷浜から約40分ほどで深浦町を過ぎ旧岩崎村に着いた、ここには500年ほど昔に山城が築かれ菊池館が有ったそうで

津軽藩の代々関所番をしていたと言う、近くの龍王寺には初代の菊池刑部の墓が有り

11代目の菊池新太郎が深浦町奉行に就任した時に先祖の菊池刑部の墓を先祖の追善供養

でこの寺に移設したと言う、現在は深浦町指定史跡と成っている

しかし国内の電話帳を全て検索出来るサイトで菊池刑部で検索すると今でもこの村に

刑部さんが居ると言う不思議な発見をした、岩手県花巻市立花地区の菊池家家系図に岩崎郷 佐々木家に嫁に行った女性が居てその叔父に当たる人で菊池刑部という名前が出て来たので、現在でも刑部を名乗っている方にお会いしたく訪ねて来た。

お宅は敷地が広く海からは高台と成るお宅で残念ながら刑部さんは毎日自分で車を運転して介護施設に通っていてお会いする事が出来なかったが、奥さんが話をしてくれ

この家は昔は殿様だったと、埼玉朝霞からこんな所まで嫁に来たんだと懐かしそうに応対してくれ、お父さんが居たら大歓迎したのにと残念がっていた。

この後深浦町太宰治記念館には旧岩崎村史が有ると言うので訪ねて見た、確かに岩崎村史には菊池家は言い伝えによると、南朝方、肥後の豪族菊池武光の一族で長慶天皇を奉じて奥州に下り、津軽に土着したと言う、岩崎村の中央の小高い山に菊池館跡が有り津軽藩の藩祖大浦為信の器量にほれこみこの地域の防備を任されたと有った、刑部が初代として11代深浦奉行、12代東奥義塾創設・初代弘前市長、13代代議士、14代医学博士など延々と続いている家系だそうだ。

 

十二湖見学

十二湖を構成するこれらの湖は、1704年能代地震による崩山(くずれやま、標高939.9m)の崩壊で塞き止められた川から形成されたのではないかと推定されている。

十二湖という名称は広大なブナの森に点在する33の湖沼が、「大崩(標高694m)から見ると湖沼数が12に見える」ということに由来するとも言われている車を降りずに12湖全てを見学して来た。

 

不老不死温泉

30年前に出張で深浦市まで来た時に1泊して又宿泊したかった温泉だが前記で書いた様に、1人泊まりお断りで断念したが温泉だけでもと日帰り温泉に入浴して来た、

泉質は ナトリウム・塩化物強塩泉 鉄泉でミルクコーヒー色である

内風呂と外風呂が有り30年前は混浴の瓢箪型のお風呂が海岸にぽっんと有ったが

現在は男女別の風呂で男性用は女性も入れるとかだが

海岸に外風呂が有る

ミルクコーヒーに見えませんか?白いタオルが茶色に代わる

この後今夜の泊りの弘前駅前の予定だったが最近の旅行雑誌に掲載されて人気の

高山稲荷神社千本鳥居へ行って見た

千本鳥居と有るので本当に千本か数えてみた、228本しか無かった、私の様に

本当に数える人がいないので皆さん千本有ると思っている人が居るのだと思うが

地元の新聞記事でも200基

 

 

義経を追いかけた重忠公の三陸海岸へ行く続々2日目

八戸市には丁度お昼に着いたので、後1時間ほどレンタカーを返すまで時間が有るので

国宝の鎧が有ると言う、櫛引八幡宮へ行ってきた。

南部一之宮と言うだけに立派な神社だ、早速宮司らしい方が居たので国宝館を訪ねた所

直ぐカギを開けるから少し待って欲しいと言うのだ、暫くして女性がカギを持ってやって来て拝観料400円を払い中に入ると、国宝「赤糸縅鎧」「白糸縅褄取鎧」が正面に並んでおり、大変由緒の有る物と見受けた・右側には国指定重要文化財の「白糸縅肩赤胴丸」と言う鎧が壇那 菊地武義 と記載

菊地武義とは九州熊本菊池市から長慶天皇の護衛で東奥へ来た武将で

その後遠野で親類が舘を築くなど繁栄した氏族

我が家の祖ではと言われる人物、当時は南部の地で有った八戸の

櫛引天満宮まで来ていたのかと、改めて敬意を感じた

 

赤糸縅鎧             白糸縅褄取鎧

 

見学後八戸駅前のトヨタレンタカーに車を返却、新青森へ向かうまだ昼食を食べていないので、地元特産の駅弁「海峡漬ちらし」が一番美味しそうなので、新青森までの25分ほどの新幹線車内で食べる

サーモンがタップリ、いくらの味付けも良かった

 

新青森到着後は新幹線駅下の駅レンタカーを48時間の予約をしていたので

今度は割と新しいトヨタのヤリスだった、機能が最新で三陸縦断道路もこの車だったら良かったのにと思った。

この後40分ほどのドライブでつがる市で30年振りに4歳年下の会社の元後輩と待ち合わせ場所のつがる市消防署前のセブンイレブンまで向かった。

この後輩は40年前に帰郷しつがる市の合併前の木造町の職員と成り一昨年秋に当地を訪れた時に、胃がんの全摘手術をやり会えなかったが、今回は体調も良くなり、会える事に成り、お互いの現在の話やら旧友や先輩たちの近況などの話を懐かしくした、まだまだ一緒に酒を飲む体の状況では無いので早く元の様に回復し一緒に酒を飲む事を約束し2時間ほど会話をした。

後輩の彼は現在つがる市交通安全協会 会長をしており4年前まではこんな体格の良い

体だったのが現在はとても見せられる事が出来ない。

つがる市広報より手術前

 

今日の次の目的地「千畳敷」まで1時間掛けてドライブした。

コロナが終息以降、全国旅行支援で沢山青森県にもお客さんが沢山予約が入る様に成り

当初宿泊を予定していた30年前に泊まって、もう一度泊まりたかった「不老ふし温泉」が予約は1人泊は受け付けていなく、近くの温泉、鰺ヶ沢温泉、深浦温泉も一人泊まりの予約の値段を吊り上げているので、今回は千畳敷駅前の民宿「望洋館」を電話で予約した、最初にうちは温泉は無いですよ、と言われ、それは承知なので一人で泊まらせて欲しいと言うと、それなら歓迎しますと2ヶ月前に予約をした。

中心に見える千畳敷海岸が目の前の民宿

6部屋程あるこじんまりした民宿だが店主の愛想の良さと奥さんの標準語が

(本当は王林ちゃんの様な津軽弁を期待していた)料理も豪勢

 

酒は店主が酒にはうるさそうな客ではと、豊盃(ホーハイと読む)

特別純米酒を準備してくれていた、サービスで缶ビール2缶が付くと

言うがお風呂上がりで1缶を飲んだので食事の最初から純米酒にしたら、

ビール1缶分を酒から引いて清算してくれた、ありがたかった

 

 

 

 

 

 

 

 

義経を追いかけた重忠公の三陸海岸へ行く続2日目

諏訪神社

源頼朝の命により、源義経を追いかけて畠山重忠公がこの地まで追いつき義経に向けて弓を射たが、重忠公は義経とは平家を一緒に追いかけ、一谷の合戦では鵯越の崖を降りたり、壇ノ浦まで行き平家滅亡の為、戦った仲間で有った。

重忠は逃げ延びんとする、義経に当たらない様にと祈りながら弓を射たと言う、矢は義経を外れて松の木に刺さった、その時の矢がこの諏訪神社のご神体として祀られていると言う。

田野畑村から三陸縦貫道で30分ほどで有るが、又々古いトヨタレンタカーの

ナビに引っ掛かり田野畑ICが閉鎖されている場所経由の為譜代町ICまで下道で

1時間掛けて久慈市諏訪神社に到着した、ここではNetの口コミで車で上まで

行ける情報が有ったので、Google Mapで探したが出てこず、余り普段は信用

していないYahoo Mapでしっかり場所が記載されていた

西側から南へ廻りながら行く狭い道で小型車でないと行けない

道だが頂上に諏訪神社が有った

参道も中々立派だ

内部を携帯のフラッシュで撮影したが矢は見えなかった

この神社を管理している人と話をしたが、自分は神主ではないので

矢が有るのは聞いているが見た事が無いという。

駐車場から義経蝦夷へ旅立ったと言う、久慈港が見えた

車で神社の下へ降りると昭和8年の津波被害の記念碑が有った

三陸沿岸は度重なる津波被害で至る所に津波被害の記念碑が有るようだ

車で神社へ行かない人は海岸からこの階段を20m上って行くそうだ

義経を追いかけた重忠公の三陸海岸へ行く2日目

畠山神社

武蔵武士の鑑と言われた重忠公は頼朝から義経征伐を命令され

平泉にいた義経の首を頼朝ヘ持って行き、ご褒美に二戸を褒美で貰ったと有るが、地元の人達は義経を慕っていたので決して義経が死んではいなく、田野畑村から久慈ヘ向かい蝦夷地ヘ逃げ延びたと各地に伝説が残っている、岩手県平泉から青森県竜飛岬まで66ヶ所もの足跡が有り義経伝説が残されている。

http://www.kuji-tourism.jp/yoshitsune/legend/footmark.html

この畠山神社は重忠公が馬に乗り義経武州男衾畠山から平泉まで追いかけてさらに田野畑まで来て、この崖は今でこそ立派な思案坂大橋が架かっているが、東は三陸の海、西は海岸段丘に囲まれた岩手県田野畑村陸の孤島だった、田野畑に赴任する役人や教師があまりの険しい断崖の道に「行くか、戻ろうか」と思い悩んだ思案坂、職を投げ出してまで帰ってしまった人も居たと言う別名辞職坂でようやく隣村とつながっていたと言う事だそうだ、この道の険しいさで、愛馬が足を骨折したのだと想像するが、愛馬と鎧(あぶみ)を埋葬した場所が畠山神社として、田野畑村在住の畠山性の方達から崇拝されているという、龍泉洞の有る岩泉町から畠山神社へは県道44号で40分程だが、重忠公が歩いたであろう思案坂を経由で行くため、岩泉町中心部経由とした、現在では思案坂を通る人は居なく崖だけが残って見学コースと成って居る様なので、国道45号線を槙沢坂大橋(102m)経由で畠山神社に到着した。

槙沢大橋手前と奥の三陸縦断道路の思案橋である

畠山神社

管理がしっかりしていて、畠山家が管理しているのだろうか

神社の入り口には「義経北行伝説と畠山神社」案内板が

畠山神社から田野畑村民族資料館へ行く途中には「辞職坂」が有り、ここも現在では大きな「思惟(しい)大橋」が掛かっていた、橋の北側に駐車場と展望台が

有ったので、展望台から思惟大橋を展望したが、120mもの崖に掛かる大橋の

スケールの雄大さには圧倒される景色だ、重忠公が馬でこの辞職坂とその前にある

思案坂の何れかを馬で降りた時に愛馬が骨折したのでは無いのかと推測出来る険しい

坂だった

思惟橋の駐車場には橋開通記念の石碑が有り当時の村長の文章が記載して有った

「内容を記載してみると」

たのはた物語

田野畑村は、三陸リアス式海岸の西側に発達する海岸段丘と、それに連なる山地からなり、全体的起伏は標高百米から二百米の丘陵地に位置している。

村内を東流する小河川、いずれもみな深い侵食谷を刻み、その代表的渓谷として羅賀沢、松前沢、槙木沢、弥生沢などがある。この渓谷が、かっては人々の通行を阻み、そのため田野畑村陸の孤島と称された。

昔、田野畑村に赴任を命じ県の役人や学校の先生が先ず出合う最初の難所が、深く険しい榎木沢。

「きて、行こうか、戻ろうか」と思案するのでこの坂を「思案坂」と呼んだ。この坂をやっとの思いで越えると次は更に深く大きい松前坂が控えており、その往来の難渋さに職をながだして帰る谷ということでこの坂を「辞職坂」と呼んだ。

この2つの坂に まつわる逸話が数多く残されているが、それも今は昔語り、長い間の村民の悲願が叶い昭和四十年には「思案坂(槙沢)」に全長二百四十米、谷底からの高さ百五米の鋼橋槙沢橋が完成、昭和五十九年には「辞職坂(松前沢)」に全長三百十五米谷底からの高さ百20米の鋼橋、思惟大橋(逆ローゼ橋としては全国有数の大規模)が完成、地域住民に大きな光明を与え、田野畑村を大きく変えた。

 

なお、思惟橋名は、教育の村、思考の村を象徴し、思惟し続けて行く田野畑村の願いを込めて命名した。

 

昭和六十一年十二月十四日

文 田野畑村 村長 早野仙平

建立 建設省東北地方建設局

    三陸国道工事事務所

記念碑の裏面

揮毫(キゴウ)田野畑村 教育委員会 委員長 畠山久造 と記載ここでも畠山家が

活躍している

 

田野畑村民族資料館

開館が10:00なに30分も前に到着したので、三閉伊一揆の像が外に有ったので見ていた

左の立っている人が田野畑太助と言う畠山太助さんだそうだ

 

犬の散歩中の叔父さんに声を掛け、マサカと思ったが畠山さんですかと言うと、畠山ですがとの返事、本当に畠山さんだった、確かに住民の13が畠山さんと聞いていたのでダメ元だったのに、大当たりだった、余りにもの偶然に驚いたが、畠山家は何処から田野畑村に来たのかなどと話して居たら、そう言う話しに成ると喋るのを止めない、自分の兄が家に居るので家に来ないかと誘われるまま、車で2分位の、お宅にお邪魔してしまう事に.....

 

お兄さんは以前、深谷市と合併する前の川本町に行った事があり、田野畑村での歴史研究をしていた元田野畑村村会議員、たのはた三閉伊一揆を語る会 会長 畠山吉郎さんだった、吉郎さんも畠山家がどうして田野畑に来たのか今でも解らないと話していたが、私の調べた、「奥州藤原攻め」で軍功のあった畠山重忠の弟重宗に二戸が与てがわれ、その後に重宗の嫡子が早世し嗣子がなかったため、鎌倉浄法寺で出家していた重慶が還俗して重宗の跡目を継いだとする説もありますと話すと、そう言う事は初めて聞いたと、帰りには吉郎さんの自分伝の本を頂いてきた。

帰り掛けに貴方も良く勉強してると褒めて頂いた。

 

畠山神社に愛馬と一緒に埋葬された鐙を、掘り出し保存されていると言うので見学した

受付前のすぐ横に展示して有り、気が付かないで通り過ぎてしまい、館内一回りしても見当たらず、職員の方に聞いたら入場料を払った場所に有った

この時代の鋳造が黄銅だったのか鋳鉄だったのか分からないが、早めに

掘り出したので今でも使えそうな鐙だった。

 

 

 

義経を追いかけた重忠公の三陸海岸へ行く1日目

 

6月26日大人の休日クラブパスを使い『はやぶさ9号』に大宮駅から乗るが、JR東が一番暇な時期に実施の4日間新幹線指定席含め乗り放題パスが先週から3週間だけ実施で、新青森行きの大宮駅95分発全席指定席が満席だった。

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1126分に八戸駅に着いた、八戸で新鮮な魚介類の昼食と予定していたが、八戸駅周辺を散策したが、八戸駅周辺には大した店が無いのでまた八戸駅まで戻り駅横にある駅ビルの様なビルの2階に有る地元の経営のレストランで青森の新鮮な烏賊刺し付、南部煎餅を入れて煮る南部煎餅汁定食を注文した。

青森なのに何で南部煎餅?、江戸時代は八戸藩は南部家の別藩(2万石)だった

八戸駅からGoogle Mapでは田野畑村まで1時間30分程と出るが、トヨタレンタカーで混雑時の古い車タンクのナビでは最近全線開通の三陸縦貫道路が地図にない、一般道路を3時間掛けて田野畑村に到着、震災遺構を見学した、津波によにって決壊した防波堤がそのまま保存さている、まざまざと津波の凄さを見せてもらった。

現在は立派な防波堤が出来、平成23年に来た津波ならこれで大丈夫だろう

直ぐ近くには過去に津波20トンもの石を置いていった、石を羅賀の津波石として三陸津波を伝承の為そのまま保存していた

海から20mの場所まで運んで来るとは、改めて津波の怖さが解る

真ん中上の白い部分が海で有る

田野畑村の震災記念碑として4本の石碑が有る場所を見つけた

明治29年、昭和8年、平成23年と三陸地方を襲った津波の被害に遭った大津波伝承の碑だった。

26日は月曜日で田野畑村民族資料館が休みの為、早々に切り上げ

今夜の泊まりの龍泉洞温泉ホテルに到着した

全国旅行支援が使え龍泉洞入場券が付いた、岩手和牛の和定食プラン

5時到着だったので、6時閉館の龍泉洞見学に行ってくる

さすがは日本3大鍾乳洞、入り口からゴウゴウと水が流れている、閉館少し前

なので見学者が居なく貸し切り見学だった。

龍泉洞温泉ホテルと有るが温泉では無かった、Ph8に成っていた、龍泉洞の水を

沸かしているらしいが、温泉に成る少し前の成分は入っているようだ、入浴後肌がスベスベ

して来た。

これが岩手和牛和定食、お酒はホテル系列の泉金酒造の

特別純米酒 八重桜にした