義経を追いかけた重忠公の三陸海岸へ行く2日目

畠山神社

武蔵武士の鑑と言われた重忠公は頼朝から義経征伐を命令され

平泉にいた義経の首を頼朝ヘ持って行き、ご褒美に二戸を褒美で貰ったと有るが、地元の人達は義経を慕っていたので決して義経が死んではいなく、田野畑村から久慈ヘ向かい蝦夷地ヘ逃げ延びたと各地に伝説が残っている、岩手県平泉から青森県竜飛岬まで66ヶ所もの足跡が有り義経伝説が残されている。

http://www.kuji-tourism.jp/yoshitsune/legend/footmark.html

この畠山神社は重忠公が馬に乗り義経武州男衾畠山から平泉まで追いかけてさらに田野畑まで来て、この崖は今でこそ立派な思案坂大橋が架かっているが、東は三陸の海、西は海岸段丘に囲まれた岩手県田野畑村陸の孤島だった、田野畑に赴任する役人や教師があまりの険しい断崖の道に「行くか、戻ろうか」と思い悩んだ思案坂、職を投げ出してまで帰ってしまった人も居たと言う別名辞職坂でようやく隣村とつながっていたと言う事だそうだ、この道の険しいさで、愛馬が足を骨折したのだと想像するが、愛馬と鎧(あぶみ)を埋葬した場所が畠山神社として、田野畑村在住の畠山性の方達から崇拝されているという、龍泉洞の有る岩泉町から畠山神社へは県道44号で40分程だが、重忠公が歩いたであろう思案坂を経由で行くため、岩泉町中心部経由とした、現在では思案坂を通る人は居なく崖だけが残って見学コースと成って居る様なので、国道45号線を槙沢坂大橋(102m)経由で畠山神社に到着した。

槙沢大橋手前と奥の三陸縦断道路の思案橋である

畠山神社

管理がしっかりしていて、畠山家が管理しているのだろうか

神社の入り口には「義経北行伝説と畠山神社」案内板が

畠山神社から田野畑村民族資料館へ行く途中には「辞職坂」が有り、ここも現在では大きな「思惟(しい)大橋」が掛かっていた、橋の北側に駐車場と展望台が

有ったので、展望台から思惟大橋を展望したが、120mもの崖に掛かる大橋の

スケールの雄大さには圧倒される景色だ、重忠公が馬でこの辞職坂とその前にある

思案坂の何れかを馬で降りた時に愛馬が骨折したのでは無いのかと推測出来る険しい

坂だった

思惟橋の駐車場には橋開通記念の石碑が有り当時の村長の文章が記載して有った

「内容を記載してみると」

たのはた物語

田野畑村は、三陸リアス式海岸の西側に発達する海岸段丘と、それに連なる山地からなり、全体的起伏は標高百米から二百米の丘陵地に位置している。

村内を東流する小河川、いずれもみな深い侵食谷を刻み、その代表的渓谷として羅賀沢、松前沢、槙木沢、弥生沢などがある。この渓谷が、かっては人々の通行を阻み、そのため田野畑村陸の孤島と称された。

昔、田野畑村に赴任を命じ県の役人や学校の先生が先ず出合う最初の難所が、深く険しい榎木沢。

「きて、行こうか、戻ろうか」と思案するのでこの坂を「思案坂」と呼んだ。この坂をやっとの思いで越えると次は更に深く大きい松前坂が控えており、その往来の難渋さに職をながだして帰る谷ということでこの坂を「辞職坂」と呼んだ。

この2つの坂に まつわる逸話が数多く残されているが、それも今は昔語り、長い間の村民の悲願が叶い昭和四十年には「思案坂(槙沢)」に全長二百四十米、谷底からの高さ百五米の鋼橋槙沢橋が完成、昭和五十九年には「辞職坂(松前沢)」に全長三百十五米谷底からの高さ百20米の鋼橋、思惟大橋(逆ローゼ橋としては全国有数の大規模)が完成、地域住民に大きな光明を与え、田野畑村を大きく変えた。

 

なお、思惟橋名は、教育の村、思考の村を象徴し、思惟し続けて行く田野畑村の願いを込めて命名した。

 

昭和六十一年十二月十四日

文 田野畑村 村長 早野仙平

建立 建設省東北地方建設局

    三陸国道工事事務所

記念碑の裏面

揮毫(キゴウ)田野畑村 教育委員会 委員長 畠山久造 と記載ここでも畠山家が

活躍している

 

田野畑村民族資料館

開館が10:00なに30分も前に到着したので、三閉伊一揆の像が外に有ったので見ていた

左の立っている人が田野畑太助と言う畠山太助さんだそうだ

 

犬の散歩中の叔父さんに声を掛け、マサカと思ったが畠山さんですかと言うと、畠山ですがとの返事、本当に畠山さんだった、確かに住民の13が畠山さんと聞いていたのでダメ元だったのに、大当たりだった、余りにもの偶然に驚いたが、畠山家は何処から田野畑村に来たのかなどと話して居たら、そう言う話しに成ると喋るのを止めない、自分の兄が家に居るので家に来ないかと誘われるまま、車で2分位の、お宅にお邪魔してしまう事に.....

 

お兄さんは以前、深谷市と合併する前の川本町に行った事があり、田野畑村での歴史研究をしていた元田野畑村村会議員、たのはた三閉伊一揆を語る会 会長 畠山吉郎さんだった、吉郎さんも畠山家がどうして田野畑に来たのか今でも解らないと話していたが、私の調べた、「奥州藤原攻め」で軍功のあった畠山重忠の弟重宗に二戸が与てがわれ、その後に重宗の嫡子が早世し嗣子がなかったため、鎌倉浄法寺で出家していた重慶が還俗して重宗の跡目を継いだとする説もありますと話すと、そう言う事は初めて聞いたと、帰りには吉郎さんの自分伝の本を頂いてきた。

帰り掛けに貴方も良く勉強してると褒めて頂いた。

 

畠山神社に愛馬と一緒に埋葬された鐙を、掘り出し保存されていると言うので見学した

受付前のすぐ横に展示して有り、気が付かないで通り過ぎてしまい、館内一回りしても見当たらず、職員の方に聞いたら入場料を払った場所に有った

この時代の鋳造が黄銅だったのか鋳鉄だったのか分からないが、早めに

掘り出したので今でも使えそうな鐙だった。